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「バイバイ」
私は、三重県津市で生まれ4歳まで松阪市に住んでいた。ある日のこと、庭にある菊の花にとまった赤とんぼを捕まえようと手を伸ばした瞬間、私を呼ぶ母の大きな声で赤とんばは逃げてしまった。それからタクシーに乗せられたのだが、後ろから兄の友達たちが走って追いかけてきて「バイバイ」と叫んでいた。乗っているのは母と私と二人の兄の4人だった。松阪駅に着いてからは殆ど記憶がないが寝台列車の中から遠くに揺れ動く火の玉を見たことだけは覚えている。
気がついた時には母の実家のある長崎だった。そこが長崎だと分かったのは後のことだが、初めて見る母方の祖父母はとても優しかった。そして家族4人の生活が始まったのだが、父が居ない理由は小学校に入るまでは分からなった。小学2年生の時だったか、父が一度だけ長崎に来たことがあった。その夜、兄たちが断ったため父と二人でホテルに泊まることになった。兄たちが断ったのを見て父が居ない理由が何となく分かった瞬間でもあった。
それからずっと、父は母を苦しめた人だと思っていたので心の中で距離をおいていたが、私が大人になってからはその気持ちは変わった。母との関係がどうであれ、父は私たち家族が困らないように3人の息子が社会に出るまで養育費などで責任を全うされた方だったからだ。父の支援が無くなってからは母の愚かさもあって私たち家族の生活はどん底になった。父の存在を思い知らされた感じだった。思い起こせば私が中学生の頃、アメリカに行ってホームステイをしないかと勧めてくれたこともあった。海外貿易もやっていた父だけにスケールが違ったのかもしれないが、その頃の私にはアメリカに行く勇気もなかっただろうし、その前に母が反対したので最後まで行くことはなかった。後になって少し後悔したことを覚えている。
「父子」
私が29歳の時、転勤先の愛知で仕事をしていた頃は松阪にも取引先があったので仕事の合間をみて父に会いに行った。そして、32歳の時に長崎で会社を立ち上げてからは、松阪に毎年行って一緒にお酒を飲んだり温泉にも行った。そうやって10年以上の父子関係を築いたのだが、その頃に貰った背広がある。私には合わなかったので叔父に譲ったら大変喜んでくれた。叔父はその背広を今も大切に着てくれている。今思えば、兄弟の中で私が一番父と過ごしたのかもしれない。
「形見」
父は家業の二代目だったので長兄に事業を継いで欲しかったようだがそれも叶わず廃業し、2022年3月18日に85歳でこの世を去った。コロナ禍で遠方でもあったので葬儀には参列できなかったが、翌年の1周忌法要に一人で参列させて頂いた。その時、父の部屋にあった置き時計を形見として頂き、今は私の部屋で時を刻んでいる。父と過ごせた時間は少なかったかもしれないが、深夜にこの時計を見ると何故か父と同じ時間を過ごしているような気持ちになる。私にとって父の存在は、ずっと憧れの人だったのかもしれない。

「菊作り 咲きしその日は陰の人」
By やすのしん
Alternative Music School「未来世界」
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